ハーバード留学/研究員記録

純国産(純ドメ)の日本男児。 総合商社でアメリカ、中国の投資の仕事をしてきた後、 ビジネスと政治経済の融合を目指してハーバード大学ケネディスクール(Harvard Kennedy School)に留学。 修士課程を卒業した後、現在は同大学の研究員として中国にて現地調査中。 アメリカや中国で感じることについて書いていきます。

三井物産筆頭常務 安川雄之助の生涯 (1)

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学生時代に就職活動で商社を志望した際に、きっかけとなった書籍がある。「三井物産筆頭常務 安川雄之助の生涯」と呼ばれる、明治から昭和にかけて三井物産で活躍した商社マンの自伝である。安川雄之助は明治22年(1889年)三井物産入社し、当時の日本の主力産業であった繊維事業拡大に大きく貢献し、筆頭常務(今でいう社長)に上り詰めた人物である。この明治男の生き様を知り、非常に鼓舞されたことを憶えている。

 

この書籍の興味深い点は、現代の感覚で読んでも強い共感を覚える点である。思うに明治の殖産興業を経て、貿易立国となった日本のメンタリティを象徴しているからではないかと思う。例えば、安川雄之助が官僚を目指して入学した第三高等中学校(京大)を中退して、貿易方面の実業家を志すシーンでは以下のような心情が吐露されている。

 

中国人や外国人は自国商品や外国商品を盛んに輸入して日本の金を持って帰っている。商品の生産がされないのはまだ日本の産業が未熟だからで、これは仕方がないが、これによって生ずる莫大な利益を彼等に独占させておくのは不合理である。これはどうしても日本人自ら行わねばならない。この点から今後の外国相手の商売は必ず発展すべきものである。将来必ず日本がこれで立って行かねばならぬ。

 

この時分は英国に倣って外国貿易を始めたのであるが、英国が日本の居留地で、いわゆる治外法権の制度の下にほしいままなる専横を極めて、日本の貿易は全部コントロールされていたのであった。・・(中略)・・明治初年から日清戦役までの我が国対外貿易が外人の目にいかに軽視されていたか。

 

言葉の言い回しは明治の文豪調であり現代とは異なるものの、底流にある心構えは今でも同じではないだろうか。資源のない小国である日本が欧米列強に対して存在感を示すためには、海外での活躍や貿易が不可欠であり、産業の高度化が必要である。今よりかなり厳しい状況にあった明治の先達が、不断の努力の結果、殖産興業を達成したことは非常に勇気付けられる歴史的事実だと感じる。

 

以下に記されている明治22年(1889年)三井物産に入社した直後の心理状態も、明治の時代から100年以上経った今日に至るまで、商社マンが持っている時を超えたチャレンジ・スピリッツを表しているように感じられ、なんだか不思議な気分になる。

 

かくて三井へ入っていよいよ実業家になる志望を達したが、この時自分の考えとしては一生雇人で終わることは絶対にしない。商売人として大をなすには矢張り独立して自分で店をやらねばならぬ、またこれでなければ決して成功しない、そこで独立するために暫く見習いをすることが必要である、三井へ入ったのも要するに実力養成の素地を作る手段であると決心したのであった。今日となっては、ついに一生を三井に御奉公したことになったが、当時の自分としては堅く以上のごとき考えを持っていたのである。