ハーバード留学/研究員記録

純国産(純ドメ)の日本男児。 総合商社でアメリカ、中国の投資の仕事をしてきた後、 ビジネスと政治経済の融合を目指してハーバード大学ケネディスクール(Harvard Kennedy School)に留学。 修士課程を卒業した後、現在は同大学の研究員として中国にて現地調査中。 アメリカや中国で感じることについて書いていきます。

ケネディスクールで語る日本とアメリカ、東アジア情勢の歴史と未来(3)

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「なぜ日本は勝ち目のないアメリカとの戦争に踏み切ったのか?」


これは、ケネディスクールで受けた無数の質問の中でも、答えに窮する難問のひとつです。

熟慮の末、筆者の至った考えは、「両国の国内政治が最大要因」というものです。戦争は外交の究極的手段ですが、外交政策は独立したものではなく、想像以上に国内政治の影響を受けています。



日本が真珠湾を奇襲攻撃している以上、最大の要因は当時の日本側にある訳ですが、アメリカ政権中枢が日本と戦争したがっていたことも事実と考えています。先にアメリカ側の国内要因についてご紹介します。


当時のアメリカにとって最大の敵は、欧州で急拡大するナチスドイツでした。ドイツ第三帝国はいずれ欧州を軍事統一して、アメリカを含めた世界征服に挑戦すると多くの知識人に考えられており、小さい内にその野望を打ち砕きたいと考えられていました。


ケネディスクールで知った事実ですが、当時のアメリカにはナチスの脅威を知りながらも、ドイツとの戦争に踏み切れない理由がありました。アメリカ国内に住む「ドイツ移民」の存在です。

アメリカ人でありながら、ドイツのアイデンティティを持っているドイツ移民が強い政治力を持っている中で、ドイツとの開戦を民主的な方法で決定することは非常に難しいことです。しかもその時点では、ナチスの侵攻はあくまで欧州域内に限定されており、アメリカ大陸には到達しておらず、個別的自衛権の発動要件を満たしていない。

ドイツと軍事同盟を結ぶ日本による、「卑劣な奇襲攻撃」(注意:アメリカ式表現)は、日米開戦という意義以上に、ナチスドイツと戦争をするための最良の口実を与えてくれたと語られた時には、日米開戦がアメリカ国内政治によって用意されたものであることを痛感しました。

アメリカ側に開戦の動機がある以上、1941年当時、日本に対しては日米戦争に誘導する相当なプレッシャーを掛けていたはずです。事実、決して日本政府が受諾できない条件を突き付けて、その条件を受け入れない以上、石油禁輸などの制裁処置を取るなど、日本に究極の選択を迫るという外交政策が採られていました。

当時日本の軍事力を支えていた石油資源は、アメリカからの輸入で支えられており、石油の国内備蓄量は一年分に満たない量であったと分析されており、最初からアメリカのサポートなしには自活できる状態ではなかった。

日本に「座して死を待つか、究極の条件を飲むか」というプレッシャーを与えられる立場にアメリカはおり、結果的には日本はそのどちらも受け入れることなく、アメリカとの勝ち目のない戦争に踏み切っていくことになります。



一方で、日本国内の政治要因は、まさにアメリカが放棄を求めた「中国大陸の権益」を捨てられないことにありました。当時、「満蒙は日本の生命線」と考えられており、満州鉄道を初めとした中国東北地方の経済権益、安全保障上の有利なポジションは、明治以来膨大な数の日本人の犠牲の上で獲得した決して譲歩することのできない権益と考えられていました。

この権益の放棄を主張することは国賊とされ、その瞬間政治家として「死」を意味したはずです。暗殺やテロも頻発しているため、人間としても「死」を意味していたかも知れません。


この国内政治の諸条件が重なると、日本政府の外交政策は、国内政治の強力な制約によって、たとえ勝ち目のない戦争だと分かっていても、日米開戦に踏み切らざるを得ないという結論に至ると思います。


当時「ハーバード流交渉術」は、構想も出版もされていませんでしたが、アメリカの外交交渉術は戦略的に日本の選択肢を捨てさせ、自らの望む形に誘導するものであったと感じています。

ここから筆者が学んだ教訓は、外交関係を考える上で、相手の国の国内情勢は決定的に重要なファクターであるということです。同時に、自ら「絶対に譲歩できないもの」を設定してしまうことは、直近のシリア処理でオバマ大統領の求心力が急低下したように、自ら将棋で言う「ツミ」の状態に近づけていく行為であり、外交交渉の相手(あるいはそれ以外の第三者)に主導権を渡してしまうリスクが高いと感じています。



以下、「ケネディスクールで語る日本とアメリカ、東アジア情勢の歴史と未来(4)」へ続く。