ハーバード留学/研究員記録

純国産(純ドメ)の日本男児。 総合商社でアメリカ、中国の投資の仕事をしてきた後、 ビジネスと政治経済の融合を目指してハーバード大学ケネディスクール(Harvard Kennedy School)に留学。 修士課程を卒業した後、現在は同大学の研究員として中国にて現地調査中。 アメリカや中国で感じることについて書いていきます。

ハーバードの優等生達

f:id:madeinjapan13:20130915163648j:plain ハーバードの授業の成績評価は、およそ半分がケーススタディを議論する「授業への貢献度」で決まる。

 
学生はアメリカ等の競争の激しい大学でいわゆる「全優」に近い成績を修めてきたような者が多いので、レポートの提出や筆記試験で大きく差をつけることは難しく、結果成績を大きく左右するファクターは「授業への貢献度」ということになる。ネイティブがひしめく教室で、大声で自分の意見を主張し、教授からの反論や、クラスメートからの批判に的確に答えていくことは、非常に精神的苦痛を伴う加圧トレーニングのように感じる。また、全ての発言は教授の横に座っているTA(ティーチングアシスタントと呼ばれる博士課程の学生)によって都度評価され、回数とその質に応じてシビアな点数付けがなされていく。
 
そもそもケースメソッドは、ネイティブであったとしても苦戦するぐらいなので、ノンネイティブはとても苦労することになる。取り組み始めた当初は、一応渡された教材には目を通した上で授業に参加。終わる度に、「たまたま発言のアイディアが思いついて良かった」、あるいは「アイディアが思いつかなかったけど、いろいろな事例を知ることができるから、良しとするか。」という、場当たり的な対応方法を取っていた。

ネイティブにも様々な学生がいるので、とにかく中身はないが発言回数を目指すような学生がいる反面、絶妙のタイミングで教授も驚くほどのもの凄い発言をするネイティブもいる。「なんて当意即妙にアイディアを思いつくものだろうか」と舌を巻いた。できるアメリカ人はクリエイティブだ、と。
 
ある日、当意即妙の彼がカフェテリアで自分の隣に座ってケースの事前勉強をし始めたので、自分の勉強に集中するフリをしながら、どんな準備をしているのか隣から覗いてみた。
 
なんと、彼は既に線が引かれて読んだ形跡のある30ページのケースを改めてその場で5回は読んでおり、ポイントをノートに殴り書きした後に、自分の発言のための原稿をパソコンで打っていた。その後、彼の友人が集まってきて、当該ケースについてリハーサルとなる議論を始めた。彼は決して当意即妙の右脳人間ではなく、準備に準備を重ねた努力の人だったのである。これでは場当たり的なアイディア勝負で勝てるはずがない。

 

アメリカではプレゼンテーションが「できるビジネスパーソン」の能力として非常に重視される。これはほとんどの場合、いわゆる大勢の参加者を前にオンステージで決められた時間、一人で話し続けるプレゼンテーションではない。
 
まさにふとしたタイミング、立ち話やカジュアルな場で気の利いたことをパッと話せる能力としての要素がほとんどであると感じる。事実、授業中長々と準備した内容を話す学生の評価は総じて低い。むしろ右に左に動く議論の中で、待ち伏せしていたかのように(実際待ち伏せするかのように入念に準備されている)、痺れるコメントをする技能である。
 
余談ながら、当地では自分が最高のタイミングと思った瞬間に、教授に指してもらう必要があるため、挙手の仕方も工夫されている。見たところ5パターンぐらいの挙手の仕方があるが、「できる奴」は手の上げ方も違う。
 
「エレベーター・プレゼンテーション」という言葉が知られているが、たまたま社長と同じエレベーターに乗り合わせた際に、到着階までの20~30秒程度の間に絶妙の小話をして、社長の歓心を買うことを指している。自分の経験としても、重大な意思決定がこういったカジュアルな場で行われることは納得できる。
 
あるいは多くの投資会社では、投資委員会で担当マネジャーはあらゆる方面からの反対意見に曝されることになるが、その際の受け答え次第で案件の成否が決まる。ハーバードは所詮学校なので、トレーニングの場に過ぎないとも言えるが、実際のビジネスの現場でこうしたコミュニケーションは詰まってしまったらオシマイで、数秒沈黙があるかないかが人生を左右することになる。
 
あらゆる可能性を考えに考え抜いて、学友や同僚とブレインストーミングをして、議論を重ねて、当意即妙に見える意見を涼しい顔をしてズバッという、これがケーススタディが目指しているトレーニングの要諦であるということを痛感した瞬間だった。
 
また、アメリカのできるビジネスパーソン予備軍は、ガリ勉とも思える努力の上で、まるで準備などしていないかのような顔でスマートに本番を乗り切る、そういったスタンスや価値観に触れたという意味でも良い学びの機会となった。